グロースヴァルト物語
大正時代、養蚕をやっていた祖父、佐野 満太郎が、時代に先駆けて養豚を始めた事からグロースヴァルト物語は始まります。
蚕の研究者であった満太郎は、やがて養豚をやり始め、豚の研究にも着手しました。
家畜商免許を取り、ブリーダーとして豚や牛を増やし、その売買に携わるようになりました。
当時の養豚は現在のシステム化されたものとは異なり満太郎は自ら育てた子豚を農家に売り、更に各農家から、成体となった豚を買い付け食肉店に販売しておりました。
昭和30年、父、昇が佐野家に婿入りし、昭和32年に兄、友俊昭和36年に弟の弘行が誕生。
その後、会社勤めの傍ら祖父から家畜商を受け継いでいた父 昇が、昭和40年に、脱サラし、予てよりの夢であった食肉店を始めました。現在のグロースヴァルト前身の、佐野精肉店で御座います。
父 昇は、祖父に倣って農家に子豚を売り、成体を買い付け、更にその豚を屠場で自ら捌き、自店で販売する、今では考えられませんが当時では当たり前でした。SANOブラザーズは幼少期から、そんな父に付いて歩んで来たので、牛豚との暮らしは日常でした。
母の兄である、佐野 和夫は家畜衛生保健所の所長になりその後、静岡県の食品衛生課の課長を務めいろいろな肉屋を見てきた経験から、昇が肉屋を始める際に、「安物の肉が横行している中で、それを使ってはいけない」などなどアドバイスし、昇はそれをまじめに守り続けました。
SANOブラザーズは、日々当然の様に質の良い肉を食べて育ちトンテキが一枚豪快に乗った弁当が当たり前。周りから羨ましがられました。
友俊は、さらさら肉屋に関心はありませんでしたが大学時代に、1人暮らしで肉を買って食べた時、「家で当たり前だと思って食べていた肉は美味かったんだ」と気付かされ、肉屋になる事を決心しました。
当時の肉屋はどこでも焼豚、コロッケ、メンチ、ハンバーグ等を当たり前に作っていましたが、どうしてハムソーセージだけ問屋から仕入れて、販売するのか理解できませんでした。自分では作れないものかと考えるようになりました。
父に作り方を訊いたら、「知らない」。周りの肉屋に訊いても「知らない」。「そんなもの作ってどうするんだ?」「道具が凄く高いから、やめとけ」と言われる、そんな時代でした。
結局独学で趣味としてやらざるを得ませんでした。
最初は、ハムは醤油味の焼豚を塩味にして、煙をかけたら良いのかなと軽い気持ちで焼き豚製造用の釜にチップを入れて作りましたが成功には程遠いものを感じていました。
更に、「ハンバーグを腸に詰めればソーセージが出来る」という勘違いからソーセージ作りも始めました。道具も情報もなかった時代に半ば途方に暮れるも、初めてソーセージを造った人はどの様に腸に肉を詰めていたか、原点に立ち返って考え、指で少しずつ詰めるしかない。これで気が楽になり、では、それをもっと効率よく詰めるには?今でこそすぐにクリーム絞りを使えばいいと言うような情報は氾濫していますが当時は皆無で必死に考えました。たまたま惣菜で使っていたクリーム絞りを使用し「これなら出来るっ」と考えました。さらにチョッパー(肉挽き機)の先に漏斗つけてソーセージを詰めてみました。大成功。一筋の光を見ました。真っ暗闇を手探りで歩いている中で、遥か遠くに豆電球程度であるが、小さな灯りを見出した瞬間です。しかし全然美味くない。友俊の試行錯誤を知りつつも、弘行は不味くて食べれなかったそうです。
スパイスを何種類もブレンドし塩加減も調整しながら、趣味から始めて、満足いくものとなるまで10年を費やし、やっと完成です。
カッター(ソーセージの生地を作る機械)は小型の存在を知り、スタッファー(ソーセージ充填機)とカッターは熱意にほだされ父に買ってもらえました。
スモークハウスはかなり高額で買ってはもらえません。次々とインスピレーションが沸いてくる時でしたのでブロックを組んだり、取り壊してレンガを組んだり自分で作ってしまいました。これも成功し更に美味しいものが作れるようになりました。
難関のハムソーセージの製造販売の許可を取得する為、保健所に相談に通うようになりました。叔父はすでに他界していましたが部下だった人たちが所長クラスになっていましたのできめ細かくアドバイスをいただき昭和60年に正式に食肉製品製造業の認可を受け肉屋とハムソーセージ屋を両立させました。
その後、盟友であり切磋琢磨する最大のライバルでもある箱根川上(当初は相模原市)の斉藤氏と出会いドイツ製法やドイツスパイスの存在を知ることになり飛躍的に進化を遂げました。
弘行は、「肉屋に未来はない」と悟り、一度肉屋を離れていました。
時は経ち、友俊が一筋の光を見出した頃、相談され、兄のハムソーセージに対する熱意に打たれ、再び弘行は肉屋に戻る決心をします。小学校の卒業文集で、「お兄ちゃんが本店でボクが支店をする」と書いた事を思い出し共にやっていく事を決意いたしました。
弘行が戻った時には、ちょうづめ(生ソーセージ)、ボローニャを始めとする美味い商品も出来上がっていましたが思うようにはいきませんでした。大量生産のメーカー品と比べたら、価格も高いことは仕方がなく、当時は特に自家製ハムソーセージと言っても、海のものとも山のものともつけられない物でそうそう受け入れられない時代でもあり、食べ方すら分からない、そう言う時代でした。
しかし、根気良くお客様に説明しながら、お得意様を1人ずつ増やし、結果、口コミで美味しさは広がり製造の種類も段々と増やしていきました。
とは言え、営業は依然肉屋が主力でした。二人はいずれ肉屋をやめて、ハムソーセージに完全にシフトする機会を伺っておりました。父が病気で入退院を繰り返した際、何度目かの入院中、完全にハムソーセージの一本化に乗り出します。退院した昇はそれを目の当たりにしても怒りはしませんでした。しかし、その悲しそうな顔は今でも憶えています。
その後、地元の新聞の記事に掲載された事がきっかけで店が注目され更にお客様が増えました。父も一安心したようです。
父の死後屋号を佐野精肉店から現在のグロースヴァルト、に変更。
グロースヴァルトとは「大きな森」を意味する。多くのお客様からトンネルを抜けて見える景色が、壮大な、大きな森をイメージすると言われ名付けました。更に、父の旧姓が「森」である事も一つの理由です。
二人はさらに努力を続けました。
ドイツでハムソーセージのコンテストがあると知り自分達の実力を客観的に知るために、出品を決意。1994年のオランダのコンテスト「スラバクト」で、金メダルを受賞。これは日本人初の快挙。1997年にはオランダの他、ドイツのコンテスト「ズーファ」にも出品。
金賞受賞。自分たちの技術、製法が正しかった事が証明され、更に洗練されたものを作ろうと決意いたしました。
その後は後進の指導に力を入れました。情報を独占するのではなく、後輩たちに惜しげなく広めました。
それにより、実力をつけ始めた後輩たちも後に続く様に、メダルを獲得し始めました。何年か改良を繰り返す時期が来ました。どこをどう変えるとどういう評価を受けるか調査する為、国際大会開催の度に出品を重ね、メダルやカップの獲得が当たり前になった頃、実力が世界の頂点にあると確信。自信が揺ぎ無いものとなりました。
2006年、世界大会最高の称号である「インターナショナルチャンピオン」を狙い、遂に、見事頂点を獲得し、インターナショナルチャンピオンとなり、「世界のSANOブラザーズ」と呼ばれるようになりまし
た。
想えば母 美江には幼少より礼儀作法、
食事のマナー等を徹底的に教えられました。
現在の兄弟で同じ味覚、味を分析する能力の原点になる美味しいもの、本物の味のものを沢山食べさせてもらいました。
また「お兄ちゃんは弟の面倒をよく見なさい。弟はお兄ちゃんの言うことをよく聞きなさい」を徹底的に教えられました。
祖父が家畜商を営んでいたことで、豚や牛が身近だったこと。
親に美味しいものを食べさせて貰ったことで味覚が鋭くなっていること。
試行錯誤を繰り返し、手探りで前進し、たくさんの失敗をしたこと。
これらを経験できる最後の時代だったこと。
これこそが私達の貴重な財産です。
まだまだ私達は精進いたします。
最後に、
「弟は兄を尊敬し、兄は弟を尊重する」。これがSANOブラザーズです